沓澤龍一郎をめぐる冒険(9月17日 雨)

※沓澤龍一郎氏という漫画家のことについて、自分の思い出を書きます。沓澤氏をはじめ、以下の文中での敬称は略させて頂きますが、ご了承ください。


1998年の梅雨の時期だったと思う。友達のIがいつものように家に遊びに来た。だいたい学校が休みの日曜日の午後には彼が僕の家にやってきて、夕方まで漫画の話をしたり、二人で絵を描いたりするのがその頃の休日の過ごし方だったと思う。母が差し入れにコーヒーと、ちょっとした茶菓子を用意してくれるのも定番だった。ちなみに絵のほうはIの方が圧倒的に上手くて、ヘタクソな僕はいつも彼にコンプレックスを抱いていた。そんなIが、今日はやや興奮した面持ちで言う。

「すごい漫画を見つけたんだ」

と。そしてもったいぶりながら肩掛けカバンから一冊の本を取り出そうとし、手を止めた。

「いや、でも君はもう知ってるかもな。君はマニアだから」

いいから出せと促した僕に彼が見せたのが、『S.M.H.』という雑誌だった。つるりとしたPP加工の表紙で、『Vol.11』とナンバリングしてある。11号目、という意味だろうが、当時本屋にばかり通って、財布の中身を全額漫画本につぎ込んでいた僕でも、こんな本を見た記憶はなかった。しかも定価は1500円、親からの有り難いお小遣いが収入の全てのわれわれ青少年たちには、ちと高い価格設定だ。Iが言葉を続ける。

「寺田克也が描いてるっていうからさ。漫画でも読めるかと思って買ったんだけど」

確かに当時、寺田克也はS.M.H.にコラムを連載していたのだが、それは前号で終了していて、この11号には何の原稿も載っていなかった。パラリと誌面をめくると、飛び込んでくる『巻頭特集 関節人形』の文字。関節人形? 当時ベルメールも天野可淡も知らなかったティーンエイジャーに、その言葉と、そして裸の少女たちの人形の写真は、なかなかに衝撃的だった。

「で、巻末の漫画を見てくれよ」

せかすようにIが言う。雑誌のおしりの方のページをめくると、確かに巻末には漫画が掲載されていた。『親切』そう巨大なゴシック体で印刷された、あまりにシンプルなタイトル(最初は『おやきり』と読むと思って、親を殺す話なのかと勘違いしたほどだ)。カウガールのスタイルで遊園地にあるようなロデオの子供用遊具に、窮屈そうに乗っている女性……ただしその遊具からは鋭利なチェーンソーが飛び出している、そんな絵が描かれただけの奇妙な表紙。作者の名前は『沓澤龍一郎』。まったく聞いた事のない名前だ。行きつけの本屋、古本屋の棚を思い起こしても、見た記憶がない。とりあえず、ページをめくって読んでみることにする。Iはニヤニヤしながらそれを見守っていた。

圧倒的だった。これほど圧倒的な漫画を読んだ事はなかった。まず画力。鉛筆の圧倒的な力強さと繊細さで描かれた近未来の水没世界と、そこで暮らす若い巨乳女性と中年男性の造形を見事に描き切っている。そしてストーリー。地球は水没し、人類の大多数は人魚となり水中で暮らしている世界の中で、なぜか地上に残りサルベージをして暮らす女性と、彼女に水中生活の勧誘にきた県の生活課職員である中年男性との、軽妙でもあり、ウェットでもある不思議な会話のやりとり。タミヤのマーク、オバQの肩掛け、キティちゃん等といったちりばめられた小ネタの数々もニクい。そしてそれらの全てが、たった16ページの中に収まっているという恐ろしさ。感傷的な結末も相まって、僕はいっぺんにこの漫画が好きになった。いや……この感情を好きなどと単純に言い表していいのか今でもわからない。とにかく、もの凄い衝撃を受けたのは事実だった。

作者の名前は『沓澤龍一郎』。だが僕もIも、このもの凄い漫画を描いた人物がいったい何物なのか、さっぱりわからなかった。雑誌のプロフィール欄には元セガのデザイナーで、コミックバーズでも執筆中とある。また表紙のアオリには『伝説のコミックアーティスト久々登場!』とあった。パソコンに詳しかったIは原稿を見て「これは鉛筆画をレーザープリンターで出力しているんだ、だから線がドットで分解されている」という目ざとい指摘をしたが、そこから先に得られる推論は特に無かった。

「なるほど、つまり寡作ではあるものの、これまでにある程度の作品を発表し、もはや伝説の域にまで達しているベテラン漫画家という事にちがいない」

それが当時、僕とIの考えた推論だった。今から考えると、勘違いも甚だしい。そして、他の沓澤龍一郎作品も読みたい!と思った僕らが、沓澤龍一郎の著作を探すことを日課とするようになったのは、当然の事と言えた。だが書店でバーズを買ってみても、沓澤漫画は載っていなかった(当時すでに『魔法使いがはじまる』は掲載されなくなっていたのだ)し、本屋、古本屋をしらみ潰しに巡っても沓澤龍一郎の単行本、などというものは一切みつからなかった。インターネット環境はいちおう家にあったのだが、ネットで本や作者を探す、などという発想は当時の僕らには全くなかったし、当時のインターネットといえばサイトごとのリンクを辿っていく、いわば部屋ごとに分かれた迷路のようなもので、検索して物を探す用途が主流になるのはもう少し後の話だった。


その年の夏休み、僕とIは一縷の望みを胸に、東京へ向かった。目指すは神保町の古本街。S.M.H.の11号の表紙にはこうあった。『伝説のコミックアーティスト"久々"登場!』つまり、いつかはわからないがそれ以前のS.M.H.にも、沓澤龍一郎は登場している! S.M.H.のバックナンバーを探すことこそが、僕らに残された沓澤漫画を読める最後に残された手がかりだったのだ。当時S.M.H.を出していたホビージャパンには既に在庫がなく、本屋や古本屋でバックナンバーを探したが、成果はあがらなかった。そもそもS.M.H.を取り扱っている本屋が皆無だった事もある。そこで僕らが希望の星として目星をつけたのが、古本のメッカ、神保町である。行った事は一度もないけれど、そこに行けば全ての本が手に入るという、伝説の聖地! 夏休みのある一日、僕らは神保町の古本屋をしらみつぶしに回って、S.M.H.のバックナンバーを探しまわるのだ、そういう計画を立て、ふたりで東京への電車に乗り込んだ。

結果から言うと、S.M.H.のバックナンバーは見つからなかった。いや一冊だけ見つかったが、それには沓澤漫画は掲載されていなかった。というか、子供だった僕らは完全に、行く場所を勘違いしていた。神保町の古本街というのは要するに古書を中心とした世界であり、あの時僕らが向かうべきはきっと中野ブロードウェイあたりか、あるいはバックナンバーをいつまでも取っておいてくれるような超大型書店だったのだろう(じっさいその一冊だけ見つかったS.M.H.が置いてあったのは、古本屋ではなく普通の書店だった)。徒労感だけを得た僕らは夕暮れ、電車にゆられながら帰っていった。帰ってからまた『親切』を読んだ。こういうマンガを描きたい、いや、自分は描かなければならない。『親切』を読むたびに、僕はそういう脅迫にも似た意識を抱くようになっていた。


ともあれ、それからも僕らは沓澤龍一郎の手がかりを探し続けた。フロントミッションオルタナティヴの攻略本を何種類も取り寄せたり(後にゲーム自体もプレイした)、その攻略本に載っているコミカルな顔写真に爆笑したり、生まれ年から『親切』を描いた年齢を逆算してその若さで!と驚愕したりした。書店でたまたま見かけたバッケンローダーの攻略本にイラストを見つけて狂喜したこともあった(そしてサイン色紙のプレゼントに応募して見事に外れた)。大型書店でついに『ピーチマン』の掲載されたS.M.H.のバックナンバーを発見し、喜んだ反面『親切』とは違う芸風に戸惑いも覚えた。忙しくも、楽しい日々だった。

翌年の1999年は、僕らにとってはまさに沓澤龍一郎の年だった。S.M.H.には新作漫画『こうきしん』が掲載され、16ページながら『親切』以上の濃密な鉛筆画とSFチックな内容に興奮した。続いて村田蓮爾企画編集のフルカラーコミックFLATにも、不法就労のパキスタン人が日本野球で活躍するという『イスラマバードジャイアンツ』が掲載される。だが何と言ってもこの年一番の事件は、雑誌『コミッカーズ』で沓澤龍一郎が表紙を飾り、ロングインタビューが掲載された事だろう。僕はむさぼるように読んだし、まだ見た事のなかった絵がいくつも掲載されていたのも嬉しかった。さらに、その後コミッカーズは『error』という漫画アンソロジーのシリーズを立ち上げた。沓澤龍一郎もそれに定期的に執筆する予定だそうで、僕は喜んだ。漫画やこれまでの絵をまとめた画集を出す話もあるようだった。僕は安心し、それで、ちょっと沓澤龍一郎を追うのを休んだ。今までのように熱心に追わずとも、これからは向こうから自然と供給が来るだろうと思ったのだ。一枚一枚の絵まで執拗に追わずとも、画集が出れば、後から全部まとまるだろうし、と。


しかし、それから10年以上経った2012年の現在に至るまで、沓澤龍一郎の作品をまとめた本が出ることは無かった。


今から思い返しても、あの頃の『S.M.H.』から受け取ったものはあまりに多かった。ハンス・ベルメールを知った。荒木元太郎のオタクコラムに爆笑した。確信犯や「いやが応にも」の誤用を知った。平井宜記という『謎のSF作家』のショート・ショートに没頭した(特に11号の『聖域』は大好きだ)。城平京の『名探偵に薔薇を』も、スコット・マクラウドの『マンガ学』も、後に映画を観て大好きになる『ゴーストワールド』も、全部S.M.H.のコラムで知った。ハルヒの孤島症候群を観ていてニヤリとできたのもコラムに載っていた『衣装戸棚の女』を読んでいたからだ。藤井英俊の漫画『COME PLAY MY GAME』の迫力に驚いたし、安藤賢司の幻想的な造形も大好きだったし、鬼頭栄作の『バロック』も買って何度もプレイした。でも、その中でも一番大きなものを受け取ったのは、やはり沓澤龍一郎の漫画だった。『親切』を読んで僕は、「お前は漫画家にならなければならない。これだけの世界を自分の手で描けるようになれなければ、お前の人生は決して幸せなものにはならないだろう」と『脅迫』されたのだ。


『親切』を読んでから3度ほど、僕は『親切』をそのまま模したような漫画を描く。1度目は1998年に初めて読んだ直後で、『水に沈むツバサ』というタイトルがついた28ページの短編である。水没したイタリアを舞台に、サルベージ業を営む双子の姉妹のもとに中年男性が依頼に来る話で、学校の文化祭に出したものだ。2度目は『売夏』というタイトルの16ページの漫画で、2002年にIと一緒に作った同人誌に掲載している。鉛筆画という技法、キャラクターの絵柄、水没後の世界という舞台の何もかもが沓澤龍一郎の真似でしかない内容だ。3度目のものは2004年に描いた『水槽の街』である。「この人のように素晴らしい漫画を描きたい」という思いに対し「この人とそっくりの漫画を描く」という間違った回答を、僕は3度も続けてしまった。

あれから14年が過ぎた。今でも「どうして漫画家になろうと思ったの?」「一番好きな漫画は何?」と聞かれたら、迷わず「沓澤龍一郎の『親切』という漫画です!」と力強く言う。あの時読んだわずか16ページの漫画が、自分の人生を変えてしまったのは間違いのない事実なのだから。


ジゼルとエステル

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