刑務所の前のしあわせ(1月21日 晴)

花輪和一さんの「刑務所の前」が面白いです。花輪氏と言えば「刑務所の中」がもう有名過ぎるほどに有名ですが、こちらの「刑務所の《前》」の方は、案外読んでない方が多いんじゃないでしょうか。あるいは、存在自体は知っていて1巻とかを読んでみたけれども、期待した「刑務所の中」と同じ獄中生活のアレコレが思ったよりも少なく、そのまま読まなくなった方も居るのではないでしょうか。ないでしょうか、とかなんとか言ってますが、これはまあ要するに自分の事です。

「刑務所の前」は基本的に3つのパートに分かれていて、それらが混在しながら進行していく漫画です。初めて読んだ時の感想を飾らずに言えば、「面白いんだけどなァ…」でした。3つのパートのうち、刑務所パートは「刑務所の中」同様の面白さがありますし、刑務所に入る前、友人から入手したボロボロに錆びた実銃をコツコツと修理していくパートは、じつにオトコノコの工作心をくすぐる内容でこれまた大変面白いものでした(特に、緻密なペン画で描かれた銃器描写は息を飲むほどに素晴らしいです)。ですが、3つ目のパート、日本の中世を舞台にした物語には、どうにも困惑してしまった、というのが正直なところです。

前途の2つのパートが花輪氏を主人公にしたいわゆる実録モノなのに対し、この第3のパートは完全な創作です。日本で鉄砲が普及しはじめた時代、鉄砲鍛冶を父に持つ童女と、裕福な米問屋に生まれながらそれを投げ捨て祈とう師を目指す娘、このふたりの女の子の世代を超えた友情の物語です。直截な言い方をすれば暗く、どろどろした怨念うずまく物語であり、「刑務所の中」や他2つの実録パートの軽妙さとのギャップに読んでいて困惑しました。これが前途した「面白いんだけどなァ…」の「だけどなァ…」の部分です。それゆえ「刑務所の前」のほうは、2巻まで買っていましたが実録パートだけ飛び飛びに読み直しながら、この中世パートは長らくほったらかしにしていたのです。ところが。先日、ようやく重い腰をあげて完結巻である3巻を購入し、それを機に中世パートも含めて全巻通して読み直してみたところ、……面白い。改めてきちんと読んでみると、この中世パートが滅茶苦茶面白いのです。なんで初見でこの面白さに気付かなかったのでしょうか。

中世パートの主人公のひとりは鍛冶屋の娘の童女です。年端もいかない彼女はしばしば父親の鍛冶仕事を手伝いますが、それが嫌で嫌で仕方がありません。また、普段は温厚な父親は、男と逃げた母親のことを口にすると、とたんに表情が真っ黒になり、童女はうっかり口に出してしまったことをひたすら平謝りしなければなりません。彼女は仏様に「幸せをもういっこお授けください」と祈ります。家には幸せがいっこしかないから、私が幸せだと父ちゃんが不幸せになり、父ちゃんが幸せだと私が不幸せになる。幸せがもういっこ、ふたつあれば、私も父ちゃんも幸せになれるのに、と。もうひとりの主人公は米問屋の娘「うめ」で、因業な両親を強く憎み、家を出て祈とう師の所に弟子入りをします。世間体を気にする両親は何度も彼女を連れ戻しに来て、あるいは監禁したり騙したりして、彼女を家に縛り付けようとします。うめはそんな両親を激しく憎み、そして自分の中にあるそのような醜い憎しみの心をさらに憎みます。年の離れたふたりの娘は、それぞれに幾度も現実で苦しみ悶えながら、どこかにある幸せを、幸せになれる方法を探して生きようとします。

なぜこんなに苦しいのか。なぜこんなにみじめなのか。なぜ他の人たちのように幸せになれないのか。己ひとりで生きていくことは出来ないのか。「アルヘイ」「湯起請」「玉鋳型」「茶筅玉」といった聞き慣れない言葉が飛び交う中世日本が舞台でありながら、描かれている彼女たちの苦悩はとても普遍的であり、人ごととは思えません。そんな恐ろしい業の渦巻く物語の中で、清涼剤のような存在なのが「竹ちゃん」と「岩」のふたりの女性です。竹ちゃんは童女の親友で、おっとりとした外見と性格ながら、ときおり何気なく、真理を突いたような一言を発します。「岩」はうめの米問屋で働くそばかす顔の下女で、苦労人ながら、主人が追い払った物乞いに自分で銭をやるような善良な娘です。黒くどろどろとした物語の中で、このふたりの二心ない善良さが、しばしば主人公たちに影響を与えます。特に竹ちゃんの言葉は童女を何度も啓発し、そのたびに童女は「竹ちゃんえらいね」と洩らします。

物語は童女とうめの、ふたりの別れで幕を閉じます。単行本の書き下ろしのエピローグで、童女はこう言います。「今日は秋の一番いい日だね。」そのセリフを読んで、本当に良かったなあと思ったのです。

ジゼルとエステル

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